クリスマスがキリスト教の祝日であること、そしてそれが由来のイベントが世界中を影響していて、経済効果もすごいこと。クリスマスをお祝いしない宗教がこの日はとても周辺化されていることに気づいていたいと思います。
クリスチアニティが世界で過去に「よかれとおもってやってきたこと」が必ずしもよかったとは限らないことも、私はクリスマスになると考えます。
でも、無宗教なので、適当にお祝い気分のおすそ分けをもらって、
適当に楽しんでもいます。
そのおかげで私も
息子から素敵なプレゼントをもらいました。

今日はどうやら満月っぽくて、
そのせいか、ちょっと思うことをブログに書いてみる気持ちになっています。
ふと、もうすぐ生まれてくる赤ちゃんのことを想っています。
無事に産まれてきますように。
この世はとんでもなく大変なんだけど、美しいこともたくさんあるので、そういうところをいっぱい体験してもらいたいなぁ。
その子は、日本生まれ日本育ちの韓国籍の友達(つまり、いわゆる在日といわれるマイノリティの立場の人)と日本国籍の友達の国際結婚(国際結婚っていうこと自体知らなかった!)の間に産まれてくる。
両親になる友人たちは、とても素敵な二人だから、きっといろんなことを考えて、素敵な家族を作っていくんだと思う。
ふと、名前はどうするのかな、と気になった。
日本の名前にするのかな。
韓国の名前にするのかな…
それは、彼らの選択なので、楽しみにしておくことにして、
私は自分の息子に名前をつけるとき、散々迷ったことや、
自分が親からもらったリーガルネームを手放して、Shanti Dayaになったときのこととかを思い出した。
ついでに、
大好きなジブリ映画「千と千尋の神隠し」で、千尋が千になるシーンのことも、思い出した。
ポーランドの人たちが、ロシアに占領されて地図からポーランドがなくなったときに、彼らは自分の国の言葉と宗教を軸にアイデンティティを保ち、そしてまたポーランドをロシアから取り返した話も思い出した。
息子の名前は、絶対にユニセックスなものにしたかった。
当時私はジェンダー、セクシュアリティのマイノリティについて(今思えば)かなりアクティブに活動していた。
性別二元論に違和感があって、(社会的な)男とか女とか本当にめんどくさかった。
そこに大きな意味や社会的な区別があることにどうしても違和感があった。
そして、息子の名前は、国際的なものにしたかった。
私がマルチカルチャーなこともあるし、息子は日本人でもあり、ドイツ人でもある。
一つの国という境界線はすでに超えた背景だったから。
私の周りにいた二重国籍のこどもたちは、日本語名とドイツ語名があった。
それがすごく違和感があったのだ。
どちらのカルチャーもあることが、私なのに、という持論からきているのかもしれない。
あの頃はインターネットが普及し始めていたので、散々探して今の息子の名前にした。
当時親しかった人が、せっかく日本で生まれるからと、画数のいい漢字を探してくれた。
漢字の意味も、名前の歴史的な意味も、いろいろと繋がりがあって納得のいく名前だ。
親は散々いろんなことを考えて、一方的に子どもに名前を与える。
一緒に考えて本人が決めるということができないから当然なんだけど。
でもその与えられた名前を散々親に呼ばれて、その名前に自分のアイデンティティが宿り、
いい意味でも残念な意味でも私たちはその名前になる。
「nomen macht omen」という諺がドイツ語であって、意味的には
名前がその人をつくる、的なことだったと思う。
私の本名は美亜で、親は当時、海外でも覚えてもらいやすい名前ということでmiaと決めたらしい。
女の子だから美、祖父の名前からとったという。
たまたまその祖父は私にとって、とてもスペシャルな人になったのも偶然ではない。
亜という漢字はベトナム戦争が終わった年だったので「美しいアジアになるように」ということでアジアの亜になったらしい。
子どもの頃は「幸せな子どもになるように幸子」とか、子ども本人に対しての思いじゃないんかい!と
がっかりしたけれど、
今、日本を拠点にして「葛藤ファシリテーション」なんて仕事をやってるので無意味ではなかったのかもしれない。
約11年前に、私はインドでテイクサニヤスをして、OSHOの弟子になった。瞑想を人生に取り組んでいきたいし、シリアスになりすぎず、瞬間瞬間を祝福して生きるようになりたいと思ったから。
親からもらった名前を手放して自分でクリアファイルから意味もわからないけど光っていた名前を選んだ。
それが Shanti Dayaだ。
帰国して意味を調べたらShantiは平和。Dayaは慈悲という意味だった。
これまた葛藤ファシリテーターとして考え深いものがあった。
名前を変えたことを周囲の人たちに伝えた。サニヤシンたちはそれを喜び、祝福してくれてすぐにdayaと呼んでくれた。そのカルチャーを知らない人たちは様々なリアクションをした。
結果的に、当時見事なように人間関係の断捨離が起きて、みんなと疎遠になった。
その頃から続いている人はもう片手で数えられるくらいしか残っていない。
恩師のいう通りだった。
サニヤシンになった翌日、偶然にも恩師に瞑想センターの敷地でばったり会った。
「その新しい名前であなたはどう生きていくの?」と彼女はきいた。
自分の決意のためにとった、程度の気持ちだった私はドキッとした。
恩師は自分がテイクした時のことを話してくれた。
きっといい瞑想になるから、ちゃんとdayaとして生きてごらんとアドバイスされた。
私は知りたかった。彼女が話したことを経験してみたかったのだ。
本当に、いい瞑想になった。
自分の内側でおきたこと。
そして周囲で起きたことは私がこれまで信じ込んでいた「世界」の壁をバリバリと剥がしていった。
アイデンティティがシフトしていく様子も観察できたし、
名前の大切さ、そして同時に名前なんて記号にすぎず、どうでもいいことなんだということも学んだ。
執着していたことに気付き、さっさと手放せるようになった。
そんな経験をしてから、
千と千尋をみると、とても興味深い。
湯ばーばの元で働くためには名前を取り上げられる。そして千尋は千尋の頃の記憶を失いかける。
他者から名前を奪われる経験は、歴史上たくさんの人たちが経験してきた。
植民地支配をされていた人たち、在日の人たちも日本名をつけられたと聞いた。
フィリピンから里子でアメリカ人の両親に育てられた友人はアメリカ人の名前をつけられて、
自分が白人だと言い聞かされて育ったという。
あらゆる理由があって起きたことだけど、名前ってその人本人に、本当に大きい影響がある。
そしてそれが軸になって周囲・世界が回っていく。
息子の名前の漢字はじつは当て字で、彼の名前の音のように読むのはふりがながないとわからない。
彼が大きくなった時に、その漢字の本来の呼び名に変えちゃってもいいかな、と思ってる。
名前を自分で選んでもいいんだとも。
最近私の周りにいるサニヤシンフレンズの名前が面白いと興味を示す息子が
バシッと「でも俺は絶対サニヤシンにはならないからな!」といいきったのがおかしかった。
自分で選択していけることは、その人の意思とパワーにつながれる。
外に対してNOということは、自分に対してYESということなんだ。
千と千尋の神隠しの千尋も、最後はちゃんと自分の意思で自分の名前を取り戻し、帰っていくんだよね。
あー、久しぶりに思考をめぐりました。
メリークリスマス!